もう春ね。夜は寒いけど。
昨日は更新せず。疲れてた?ので。
Mリーグ。昨日の黒沢は3着。最近の黒沢はバランスを崩してる感がありますね。手役にこだわるより「勝ち」にこだわって欲しい、と思いました。あと昨日は寿人がMリーグ最高得点を更新してのトップ。相変わらず魔王。
今日は高宮・多井がトップ。アベマズはこの戦い方だとセミ落ちもあり得るかと思ってたけど、さすが多井って感じ。現状雷電はボーダーとの差が大体200pほど。そしてあと6戦(最終日は対局なしらしい)。こりゃ今年もダメかな・・・。
DETROIT。ちょっとだけプレイ。分岐を埋めるために何回も同じシーンを見るのはちょっと辛い。シーンスキップとかあればいいのに。
で、チェックポイントの仕様がまだよくわかっていない。例えば(1周クリア後に)チャプターを1→3 等とスキップしてプレイした場合、チャプター3の内容はチャプター1の2回目プレイの内容の方を反映しているのか、それとも1周目のプレイ時のものになっているのか、など。また、分岐によってルートが消滅するチャプターの場合、そこから再開すると前の分岐で消滅するパターンを選んでいた場合にどうなるのか、とか。結局分岐をちゃんと反映させるためにはチャプターを飛ばさずにプレイする必要がある、となるとかなり面倒。まあとりあえずは分岐埋めからやったらいいのかな。PlayStation Networkに接続せずにプレイしてるのでアレなのかもしれない。よくわからんが。
勇者の飯。まだ王城で詰み。現在武器等Lv160・(エーテルで上げられる)キャラLv25ほど。
で、金を稼いで王城突破を図ってもいいのだが、ここで考えたのはデイリーダンジョンのリセット。必要キャラを先にLv30にすれば(Lvによる能力ボーナスで)金を稼いでステータスを上げるより突破しやすくなるのでは、と。(現状デイリーダンジョンでは1日1.5人くらいLv25→Lv30にできる感じ。キャラは11人なので普通にやってたら全員Lv30まで1週間はかかる。)で、貯めてたスタミナを全消費してチケットを買いまくる。リセット1回分くらいのチケットは貯まったが、出来れば2〜3回はリセットしたい。なので現在通常スタミナの方もチケット購入に充ててみている。スタミナは1日44×6(4時間でフル回復。Maxが5の倍数じゃないのもウザポイント)=264使える。リセット一回分のチケットに必要なスタミナは45×5=225なので、料理にスタミナを使わなければ1日1回はリセットできる。金でのステータス上昇に時間がかかるようになってきたら検討の余地あり、と思われる。
考えたこと。
①ネットサーフィンしてて「毒親」関連の(中野信子氏の)記事を見て。母親がお腹を痛めて子どもを産み、幼いうちはつきっきりで世話をする、という現状の「母と子」のシステムだと、母親はその「体験」の中で子に対し過度な「愛情」を持ってしまいがちで、それによる弊害を避けるためには「産む」と「育てる」という2つのプロセスを分ける(分担する・母親がやらない)必要がある、って感じだったと思う。
まず、そもそも女性が「子どもが欲しい」って思うのってどんなプロセスなんだろうか。「愛する人との子どもが欲しい」とかってよく言うけど、その子どもってどんな意味、なんだろう。愛する人との結びつきを強く意識するためのただの「道具」なのか。愛の「結晶」って、要するに愛情という目で見えないものを具体化したいってだけで、「子ども」自体に目を向けていない言葉、のような気がするの。
それとも単純に(本能の赴くままに)ただ「子どもが欲しい」って思うのか。産んだ後のこととかを全く考えず(考えないというよりかは、産みたいという感情が理性に先立つという意味で)。「子どもを育てたいから子どもを産みたい」って思って子どもを作る人はどれくらいいるのだろう。意図せず妊娠してしまった人の場合、お腹が大きくなるにつれて「この子を産みたい」っていう感情が強くなるのなら、その「源」はどこにあるのか。
男の場合は、上記のように子どもの「産みの体験」が起こらないので、(少なくとも母親よりは)毒親になりづらいってことだと思う。でもじゃあ男の方が親に向いているのかって言えば、それも違う気がする。
私の意見としては、まず子どもと接するときは「子どもとして」接するのではなく「1人の人間として」、「自分と対等な存在として」接することが重要(アドラーより)で、この世の全ての大人たちがその意識を共有するようになれば「毒親」は解決できると思っているし、将来的に人類はそれを共通認識にできるまで「進化」できるはず、と楽観的に信じている。それを達成するために具体的にどうするか、は知らんけど。まあそれでも上記のような「体験」を(ある意味)強要されるうちは、母親が子への「自分の子(所有物)」という意識を持ってしまうのは仕方ないかな、とも思うのだけれど。
私は子どもを(ねこと同様に)「地域」で育てられれば、と考えている。子ども自身が心の拠り所にできるような(単一・不動の)存在(親≒養育者)は必要だと思うが、それ以外の部分については子ども自身が選択し、どこに行くかを決定できるような、そんな社会。現在の社会とはほど遠い姿だけれど(学校というシステムはわりとこの発想でも適用できるけど)、そういう社会になる日がきっと来る、と私はなぜか思っています。それが「良い姿」なのかはわからないが、私はその方が良いと思っている。それだけ。
②ねこの話。ちょっと①と絡む。
Youtubeで某チャンネルの「四万十川のネコ」の動画を見る。そこのコメント欄に「ネコを放し飼いするのはクソ」みたいな意見があった(詳しく知りたい人は自分でググって動画を見てください)。で、自分の発想とすり合わせる?方法を考えていた。
要するに、ねこを放し飼いしちゃダメってのは、私が①で述べた「ねこは地域で飼うべき」っていうのとなんか矛盾する気がする、って話をしたいわけです。
私が想定している「地域」っていうのは、都市圏など「人が既に開発している」、「自然環境が残っていない」場所だった。ねこの「自分の行動範囲から出たがらない」性質から、「人間が見守れる範囲」の中で暮らす限りは、ねこの「自由」は確保されても良いのでは、って感じで考えていたのだった。
じゃあ離島では?離島で放し飼いされてるねこは、住宅部だけじゃなく島の「自然」とも隣接しているわけで、その生態系を破壊して・・・とか。それを言うなら、都市部でも自然が残っている場所はあるわけで、そこでねこを放し飼いしてたら・・・・とか。なんか言い訳のしようがなくなってきた感じがある。
まず、生態系が壊れるのって問題なのか?という問いは残しておいても良いだろう。急激な変化はダメ、絶滅はダメ、とか色々意見はあるだろうが、そもそも人間はその存在自体が周りの「環境」を変容させてきたわけで。環境が大事っていうのは「人間にとって有益である限りは」っていう大前提があるってことを忘れてはならない。でしょう。(でも私もブラックバスが繁殖してる河とかに嫌悪感を抱くこともある・・・。)
この問題の本質は、ねこが人間のペットとしての「ねこ」と野生の「ネコ」という相反する性質を同時に持っていることから生じる矛盾では、と私は思う。野犬の問題等と比較して考えてみると良いでしょう。まあ「飼いネコは本来外来種」っていう発想(事実)は頭に置いておくべきかな、とは思った。
本来人間が勝手にねこをペットにして利用しているだけで、それによってネコが(捕食等で)周りの生態系を破壊したとしても、結局悪いのはそこにネコを連れてきた人間の方である、と言えるわけで。でも、それじゃあねこは徹底的に管理して一切外に出さないように「監禁」しよう、っていうのもなんか私の性に合わないところもあるわけで。ねこの「自由さ」を尊重しようっていう私が「甘い」だけなのかな、とも思えるし。何にせよ、ねこと人間が「共存」できるように考えていく必要があるだろう。
・・・と、茶を濁して終わっても良いのだが、やっぱり私は「ねこは地域で飼うべき」って意見は曲げたくない。というわけで、今後は「ねこの自由(=人権(ねこ権?))を尊重したいなら」という前提条件を加えさせていただきます。それによって周囲の環境が変容・破壊されることもちゃんと考慮に入れましょう、ということで。環境保護マニアの皆さま、これで良いですか?
以上。また長文。
明日は土曜。朝寿司の予定。
そういえば、また緊急事態宣言が出るみたいですね。25日(明後日)からGW明けまで。めんどくさ。
では。風呂入って寝ます。