私がアニメを見たり本を読んだりする理由を考えてみたら、こういう結論になった。
動画は明日の予定。
今日は学校。と思ったけど活動する気がしなかった。とりあえずノルマだけこなす。
ネット上の「マンガ入門マンガ」を読んでたら、いろいろ技術的なことを教えてくれるものが多かったけど、「とりあえず描く」のが一番大事、と説くやつがあった。同感です。書き始めよう。うん。
図書館でとある本を拾った。一番心に残ったのは「科学は宗教・芸術と同様に『ことば』の』一種でしかない」ということ。そして科学は「真理」を見つけるものでなく「一時的な真理=学説」を提唱するのみである、ということ。これからどう生きればいいか、もう一度見直そう。
タイトル。ここ数日アニメなどを見てるけど、そのモチベーションは「これから主人公たちがどうなっていくのか」とストーリーを「知りたい」だけだったり、物語の中に埋め込まれた「謎」を「知りたい」だけだったりして、登場人物の気持ちに寄り添うとか、感情移入するとか、そういうのは全くないなーということに気づいてしまった。ここで考えたのは「知る」とはどの程度のことを言うのだろうか、ということ。登場人物の気持ちを「察する」ことも「知る」ことのうちに入るのだろうか。やはり私は感情が欠落した冷酷な人間なのだろうか。などなど。
あと考えたこと。「道徳」とは「いかに相手を自分の都合のいいように動かすか」、「どうすれば一番自分の利益になるか」ということを「真剣に」考えれば自ずと導かれる結論を教えているだけにすぎない。だから「道徳的」な行動をしないほうが自分の利益になると思えば、そうしなければ良いだけの話。だけどそれで痛い目を見た人も多かったからこそ「道徳的」な行動パターンが確立されてきたのだから、一応参考にはしようね、って感じなのだと思います。例。「なぜ人を殺してはいけないか」という問い。答えは「殺してもいいです」。だけど殺人は見つかったら刑法で罰せられますので、その対価に見合った行為なのかを「真剣に」考えたうえで行動しようね。逆に言えば、なぜ刑法があるかといえば、そういうルールがあったほうが「みんな=私を含むみんな」にとって都合が良いからです。そういう「都合が良くなる」ことこそが「道徳」の本質。だけど道徳を教える側にとっては教える相手がその「本質」を知らないほうが都合が良い。「自分のため」じゃなく「みんなのため」にやるんだよ、と教えたほうが自分にとっては利益が大きい。だから道徳教育では「良い行動」という「結果」だけを教える。だから教えられた側は「なんか違う。自分のためにならない気がする」ともやもやした気分が晴れない。そういうめんどくささ。だからこそこういうことを教えてくれる人が一番「道徳的」なのでしょうね。全部ある本の受け売りです。前も書いた気がする。
関連してもう1つ。「自分の感情を簡単に表に出すな」。相手の行為を不満に思って、それを口にしたり態度で示したりしてしまう人が多い。私もそう。でもそんなことをしてもなんの解決にもならない(ことが多い)。それよりも自分の行動や態度が相手に与える印象・相手の感情を予想して、相手を自分の「思い通り」に動かすことを考えてみよう。そのためには嘘をついてもかまわない。大事なのはくだらない「プライド」を捨てること。こういうのは女性のほうが得意だと思う。「豚もおだてりゃ木に上る」。昔からの言い伝えは大事にしよう。
以上。最近文章が長くなっちゃう。意識をもっと低くしていかないと。
明日は暇。ちょっと出かけるかも。学校には行くか行かないか悩み中です。
じゃーねー。