体も寒い。手が擦り切れ。
はあ。もう夜も遅いので手短に。スマート?ノートには走り書きしてあるので後で書こうと思えば書けるし。
今日の朝は某回転寿司。某ガチャガチャがないタイプの店に初めて行く。値段的にはビミョーに今日行った店の方が高かったのだが、味は同程度、というかそれ以下って感じだった。見栄えはそこそこなんだけど、私が大嫌いなサーモンのあの「くにゃり」感があったり、他の刺身も水っぽかったり。おまけにサイドメニューに天丼もない。アガリ(お茶)が蛇口タイプ(自分で蛇口を捻ってお湯を注ぐ)で、湯呑みが小さいからお湯が跳ねて大変。皿投入口がないからテーブルに皿が貯まって邪魔(昔はそれが回転寿司の醍醐味みたいなところがあったんだけど)。色々比較すると、やっぱ某ガチャがある寿司屋の方が良いっすわ。どっちもゴミみたいなもんなら安い方でいいや、的な。
タイトル。昨日からずっと部屋の片付けをしていた。過去の遺物の整理。私は中学以降、教科書・参考書・ノート(これは小学1年生から)・学校や予備校で配布されたプリントをほぼ全て捨てずに保管している(年代・ジャンル等はごちゃ混ぜ状態)。それらを掘り起こしてジャンルごと等に整理する作業をしつつ、今後まだ使えそうな本(英語の参考書など)は本棚に移す、などをひたすらこなしていた。本を手で移動しまくってたせいで、指先が摩擦で赤くなっちゃうわ、腰が重さでやられるわ。疲れたー。でもまだ終わってないっていう。
で、昔のノートやら参考書やらを見返していて、昔の自分がいかに「不真面目」だったかをまざまざと思い出した。入学当初はそれなりにきちんと保管されていたプリントたちが年代が進むにつれて散逸するようになったり(大学入試くらいになるとまた整理され出す)、買うだけ買って全く手をつけてない参考書(特に英語)が山のように出てきたり(どこにそんなに買う金があったんだろうって不思議なくらい)、最初の方のページしか書き込まれていないノートがこれまた大量に出てきたり・・・。
で、それらを掘り起こしながら思ったこと。①この「不真面目さ」は誰の責任か。そりゃ当然私自身のせいなのだが、私は他人に責任をなすりつけたい性分なので、当時の先生どもが私の中の「興味」をきちんと引き出してくれなかったり、その学問の「面白さ」を伝え切れていなかったのが悪かったんじゃないか、とマジで思ってしまっているのである。嫌いな科目で不勉強なのはまだしも、得意な科目を(平均的な授業レベルを超えて)きちんと伸ばそうとしてくれないのはやはり教師としてどうなんだろうか、と。生徒の中の「芽」をちゃんと発見して、それを大事に育てる。そういう先生が身の周りに全くいなかったのが私の不運、だといまだに思っている。私自身のアピールが足らなかっただけ、かもしれないけど。(それ以前に才能が・・・とか言わないように。)
② ①の不真面目さを肯定的に捉えると、その時はまだ私がそれを学ぶ「時期」ではなかっただけ、とも言える。勉強なんて何歳になってからでも始められる。やりたくなったらやればいいし、やりたくなかったら他のことをやればいい。それだけの話。そう考えるとまだまだ勉強することが盛り沢山で、人生飽きなくていいっすよね。
③参考書は「読む」ものではなく「使う」もの。ちゃんと使えた本は見た目でそれとわかるもの(明らかに汚れ方・ボロボロ具合が違う)。そういう「使い込まれた」本をどれだけ作れるか、みたいなのが大事なんじゃないでしょうか。
以上。取り急ぎ重要なことだけ。もう3時。はああ。
明日で片付けは一通り完了させる予定。そのあとはまた作戦立て。帰省するべきかどうかすら悩み始めている・・・。
では。おやすみ。