恋って何(2)

今日はグダーっとしていた気もするし、なんかやっていた気もする。

とりあえず来週からの試験に備え資料を用意した。資料っていうのはノートの写しとか過去問のデータとか。iPadの中に入れてちょいちょい勉強的なことをする予定。まあ始めるのは大抵試験前日くらいからなんだけど。

あと今年のはじめに予告した「イラスト製作」に取り掛かるべく、ペイントツールについて下調べ。ペンタブは買ってある。「SAI」を買う予定だったのだが、とりあえず今月・来月あたりから試用版をやってみようかなーと考えている。あ、オススメのやつがあったら教えてください。

ゲーム実況のほうもやりたいのだが、まだまだ準備が足りていない。アカウント取得とか動画編集とか・・・やりたいこと・やるべきことが多くて困っちゃう的な状態。

というわけで、テッペン超えてるけど本題に。

 

さて、「恋」とか「愛」って何なのか。

というか問題はそこじゃなくて、「私が、恋とか愛とかしたりされたりしたことがあるか」ということなのだが。

よくわからないので、とりあえず「人を好きになるということ」について考える。これが「恋」なのだろうか。

昔「恋愛論」という本を読んだことがある。一応哲学書っぽい感じ。内容はほとんど忘れてしまったが、「結晶作用」とかいう言葉が頭に残っている。その本の中で、「相手が唯一無二の特別な存在である」ということが恋愛において大事だとか言っていた気がする。たぶん。まあこれは余談。

それ以前の問題として、「私は他人を好きになったことがあるか」という疑問がある。

最近の私は人(三次元)を「好き」になったことがないと思うのだ。例えば、私にはほぼ唯一「友人」と呼んでもよい(呼べるであろう)人がいる。私はその人を尊敬しているし、ある面では「好き」だ。しかしその友人ですら「嫌い」な部分がある。「そういうのは違くね?」みたいな。ちょっと「好き」の意味が違うのがわかるだろうか。

要するに「恋」とか「愛」は単純に「好き」ということではなく、「『嫌い』な部分も含めて全部受け入れられる」ということなのではないか。相手を自分と同等もしくは上の者と認めて肯定する姿勢が「愛」なのか?

そういう意味では私は「愛」を感じたことは一度もない。親だろうと家族だろうと同級生だろうと先生だろうと。そこが問題なのだ。私は実感として「愛」を感じていないのだが、本当に「愛」というものが存在するのか。「作り話」「妄想」の中の虚構にすぎないのか。それがわからない。世界にはたぶん「愛」と呼ばれる概念は存在しているのであろう。ドラマとかで「愛の物語」とか言ってるのがあるが、そういうものが一般的な「愛」だとしたら、「私の世界」に「愛」はあるのか、今後「愛」を感じることができるのか、それが問題。

私は人を「愛した」ことはある、のだろうか。少なくとも大きくなってからは、純粋な「好意」だけを持つことが出来なくなってしまった。常に「見下した」り「打算」があったり「疑ったり」して人と付き合うようになった。私がもう「恋愛できない」とか言うのはこれが理由。付き合う相手も大人というか「子供じゃない」=「純粋じゃない(なにか考えている)」ということもある。

「相手が死んだときに泣けるかどうか」という判定法を提案してみる。この場合、私は誰が死んだとしても泣かないというか悲しまないので、誰も愛していないという結論になる。

小学生のころ、クラスメートに「付き合ってくれ」と言ったことがある。それが本当に「恋」だったのか?今でも悩んでいる。これについてはまた後日詳しく。

気分で書いているため、支離滅裂になっている。まあ誰も読んでないからいいのだけれど。

上手く表現できてない気もするが、とりあえず今日はここまで。

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