素直に「おめでとう」なんて言えるかよ

むしろ「おめでとう」と言えないことが素直。

寒すぎる。そのせいで朝食にラーメンを食べちゃう。全然体が温まらなかったが。



外出。余命約2ヶ月、という宣告(本当に死ぬとかではなく、あくまで例えですよ?)。そうじゃなくても私の「心」を打ち砕くには十分だったっていうのに。
これまでの期間で、結局何も問題は解決しなかったし、私の「寂しさ」も解消されることはなかった(多分一生そうなのだろうけど)。最低限の「人間として向き合った感覚」すら得られなかった、気がするし。そんな「仕事上=契約上」の間柄で『素直』に「おめでとう」なんて言えるはずがない。っていうか、たぶん一生心の底から「おめでとう」と言える日は来ないのだろう。「復讐」として目の前で自殺してやろうか、なんて過激に考えたりしたけど、それが「心」に響く相手でもないのかもしれないし。殺す・犯す等で苦しめようとしたって、結局何も解決してないことは変わらないし。何をしたってどうにもならない。所詮そういう相手なのだ、と諦めるしかない。「『期待』した私がバカだったのだ」と。
まあどうあがいたってあと2ヶ月の命。それをどう過ごすかが大事ですよね。まず自分が変わっていかないと、ね。
例え話?でよく分からなかったかもしれない。まあ私だけがわかればいい、という趣旨。何があったのか、(今までの記事も参考にしつつ)皆さんで色々想像してみてください。たぶんそれが正解です。


タイトルに関連して。
①私が一番嫌いな言葉は「素直」、と以前にも書いた気がする。「素直」=「自分を『裏切ら』ない」という意味で使うのなら良いのだが、この言葉にはそれ以外にも「丸くなる」的な意味合いが含まれているのが気に食わない。「素直に『ありがとう』って言え」みたいな。「素直」に死んで欲しいと思うことだってあるのに。なので私は素直という言葉は使わず「正直」を使うようにしている。自分に正直に。

②偽善と裏切り、倫理について。
人間はみんな「自分勝手」である、とたびたび書いている。それは事実なのでまあそれでいいのだが、その「自分勝手な思い」を相手に「正直」に伝えない奴が気に食わない、って話だった。「世のため人のため」とか言いながら、結局は自分のこと『しか』考えていない奴が多すぎる。(こういうのを「偽善」と呼ぶのか、と考えてみると、それもなんか違う気がする。)それが意図的なものなのか、それとも考えが足らない=バカなだけなのかは別にして。
だが「正直」な自分勝手さと「嘘をつく・ごまかす」自分勝手さ、そこになぜ(私の中で)「良し悪し」が生じるのか、と改めて考えてみると、その違いの源泉がよく分からなくなってくる。だってどちらも「自分勝手」なことに変わりはないのだから。
例えば、「お前のことが気に食わない。死んでくれ」と『正直』に言う奴(それで言われた側は傷つくかもしれない)と、(自分の利益のために)表面上は「仲良くしましょう」って言いながら心の内では「死ねよ」って思ってる奴、どっちが『悪い』と思う?って話。
仮に後者の方が「悪い」とした時、その理由として考えられるのは次の2つ(それ以外が思いつかない)。①自分に嘘をついていること。②他人に嘘をつく=「裏切って」いること。(注:もちろん前者の方が悪いという立場も考えられる。でも私はそうじゃないってだけ。)
①の立場は、「自分自身(の心・感情)に嘘をつく」という行為は根源的・普遍的に「良くない」=その人自身にマイナスしかもたらさない行為なので、自分が嘘をつかないのはもちろん、相手にも嘘をつかないことを要請できる、って感じになるのだと思う。でもその「マイナス」って精神的なもの、もっと言うなら「魂」に関わるようなことで、それは人それぞれじゃない?(=マイナスにならない人もいるのでは?)ってなってしまう。
②の「裏切り」ってのはもっと曖昧で、そもそも相手に「心」があるかも分からんし、どう思っているかも分からない。それなのに「裏切って」いるってなんなの?それ以前に、裏切って何が悪いの?自分勝手に相手の心を利用することのどこが「悪」なの?

私が考えている「ダーウィニズム」?は、アドラーの「幸福=貢献感」の考え方を応用したもので、①人間は1人では生きていけない。必ず集団を形成する。②集団として生存する(生存確率を上げる)ためには、それぞれが「自分勝手」な行動を執るのではなく、個の利益を捨ててでも集団の利益に寄与する行為を取った方が良い(場面もある)。③なので人間は進化の過程で「集団の利益」が「個人の利益=幸福感」となるシステムとしての「心」(=共感能力、相手にも自分と同じ「心」があると「思い込める」能力)を獲得し、それを運用するために「道徳=倫理」を発明した、って感じだった。これを応用すると、倫理(心)が欠如した人間=サイコパスは、働きアリの中の働かないアリのようなもので、種の多様性によって全滅の危機を避けるために確率的に生じてしまうもの、みたいな。
この観点から考える?と、本質的に「自分の精神的なメリット」=「集団のメリット」となるべきだ、ってなってしまうのである。人助けをするのも「自分勝手」でなければならない。物理的なメリットのためだけに「嘘をついて」人助けをするのは理に適っていない、ということになってしまうわけ。
上記の論理を成立させるためには、「嘘をつくことには精神的なマイナス作用がある」ってことが人類の「心」の共通原理でなくてはならない、と思われるのだが、果たしてそうなのだろうか。少なくとも私は今までの人生で「嘘をつくと精神的に良くない」と身に沁みて感じているのだが。それは単純に今までの経験として、嘘をつくとその嘘を成立させるためにさらなる嘘を重ねなければならないとか、嘘の整合性を保つために色々と考えなければならないのが面倒とか、そういうことではなく、嘘をつくとなんか心にトゲが刺さったような感覚がある、言い換えれば「後ろめたい」感じがある、その段階でのマイナス作用が人類共通で存在するのでは、と言いたいわけである。どうなんでしょうか?(上段落の①。)
それとは別に問題になるのが「裏切り」。上記のダーウィニズムの範囲では、裏切り=相手を騙すことは集団の利益を損ねることに(直接的には)結びつかないので「裏切り=悪」を説明できないのではないか、ってこと。これは「倫理」の教育によって後天的に獲得するもの、なのか? 相手を「騙す」こと=個の利益を優先して集団の利益を損ねること、って定義してしまえば理論的には問題なくなるが、それで良いのか?(心のシステムはその定義を採用しているのか?)まあサイコパス的な観点からしても、相手を騙す→騙された側が不満を持つ→集団の中での「信用」が失墜する→人間関係的なデメリットが生じる(相手を利用しづらくなる)って感じで「裏切らない方が(基本的には)都合が良い」ってことになるのかもしれないが。(上段落の②。)(参考になるかもしれないのは、韓国語には「裏切り」という意味の単語がないらしい、とか。これは「裏切り=悪」の感覚が後天的な作用であることを示唆している?)

まとめ。「人は一人では生きていけない」って言葉は「人間は集団の利益=個人の幸福となるようにプログラムされている」って解釈できるのではないか。まさに「情けは人の為ならず」。倫理とは「個の利益=「利己」を追求していくと、結果的に「利他」的にならざるを得ない」って意味(=サイコパスにも「倫理」は通じる)の他に、上記のような「プログラム」を含んでいるのでは、とも考えられる。
って、ダーウィニズムに関してだけのまとめになってしまった。結局なんで「自分勝手に『嘘をつく』のが『悪い』(と感じられる)のか」の原因はよく分からないまま。それが先天的な人類共通の心の作用なのか、後天的な倫理教育によってもたらされるものなのか。もう少し考察の必要がありますね。




以上。クソ長い文を書いてしまった。しかも中身がない。その上時間もかかるし。反省。
明日はゆっくり過ごしたい。もう年末モードに入りたい。来年からの「不安」に耐えるために。




では。もう寝ます。

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