生魚。
寝てただけ。何もしていない。夕食は巻き寿司。
麻雀。最強戦を最後だけちょこっと見る。どうやら多井が優勝したみたいですね。ま、どうでもいいか。
BORUTO。オープニングが微妙に変わってた。隠れてた顔が出現。一人ひとりに数字が割り振られている模様(ビクタはⅤなど)。あとボルトの手の紋様が増えてたね。来年からはようやくメインのシナリオが動き出すのだろう。ちょっとだけ楽しみ。
選択的夫婦別姓について。この土日にいろいろ考えていた。特に某氏への反論。もう時間が遅いので長くは書かないが、ちょっとだけ。
まず名前の意義について。「自分の名前を自分でつける『権利』はあるのか?」という問いを考えてみる。
いつもの「無人島に1人でいる」仮説を考えてみると、その状況では名前は不要である、ということがわかる。「僕」や「私」という第一人称が名前と同義になる、と言ってもいい。
もう1つ例を。ある野良ねこを想定してみる。そのねこは朝になるとどっかの家に行きエサをもらうのだが、その家の住人からは「タマ」と呼ばれている。昼になると別の家にエサをもらいに行き、その家では「チビ」とか別の名前で呼ばれる。夜はまた別の家で別の名前で呼ばれる。そんな野良ねこの本当の「名前」って何なのだろうか。別の言い方をすれば、ねこ自身は自分の名前を何だと思っているのか。
要するに、名前とは「(自分以外の)他人が、自分(=名前を付けられたもの)とそれ以外のものを『分ける』ためにつけるもの」ということ。名前は「自分以外の人から呼ばれる」からこそ存在してる、と言ってもいい。つまり、「自分の名前は『他人』がつける」のが当たり前だ、ということ。
あだ名をつけることを考えてみると良い。あだ名は相手(個人であれ集団であれ)が自分をどう呼びたいかで決まってくるのが普通で、自分自身が「こう呼んで欲しい」と呼びかけて決まるのは極めて稀、ということがわかる。(ちなみに私は最近の「あだ名禁止」には賛成です。あだ名が余計なトラブルの元になるなら、そしてそれがあだ名をつけられた当人にとって(精神的・物理的に)マイナスになる可能性があるなら、ない方が良くない?って感じで。)
冒頭の問いに戻ってその答えを考えてみると、私の答えは「自分の名前を自分で決めることは可能だ(許される)が、その名前で呼ぶことを他者に強制はできない」となる。名前というものの本質から考えれば、「自分の名前を自分でつける権利」より「他者が自分を(他者自身が決めた呼称で)名付ける権利」の方が優先されるべきである、ということ。自分の名前は相手の数だけある、とも言える。
じゃあ現在の私たちが所持している名前(「山田太郎」とかそういうやつ)は「誰」が「何のために」つけたのか、と考えてみると、「親が『こういう子どもに育ってほしい』と願ってつけたんだよー」とかそういうことじゃなくて、日本政府とか「社会」が、個人を弁別する「利便性」のためにつけることを「強制」してるのだ、と捉えることができる。「名前とは社会の要請である」と言ってもいい。つまり、名前のシステムはその社会と深く関連している、ということ。現在の日本で自分の名前を気軽に変えられないのは、日本の社会がそれを強制してるから、そしてそれには一定の合理性があるから、と考えることが出来る。
今回はこれくらいで。次は某氏への具体的な反論を交えながら選択的夫婦別姓に「賛成」の理由を述べていきたいと思う(ここまでの議論で「反対」じゃないの?と思ったかもしれないけど)。
以上。まあ何もしてない。反省あるのみ。
明日は外出。反省会。そして日々の活動に邁進したい。精進あるのみ。
では。