そりゃ1か月以上は休めませんわな。
GW明け。何もやる気が出ない。
昼に外へ。宣言直後に「5/6(延長前の宣言解除日)まで営業休止します」と書いてあった店たちが再開してるかを見に行く。私の行きつけの店が再開してたのでそこで昼食。当然コロナ対策はしてたが、宣言前と変わらぬお味。1か月振りの再会に喜ぶ私の舌と胃。調子に乗ってまた明日も食べに行くかも。
その後は喫茶店へ。MacBookでPythonのお勉強を開始。初日は基本文法を確認。シーケンス(配列?)の型や簡単な使い方を学ぶ。 ファイルの読み書き関係はテキトーに確認しただけだが。やっぱPythonってかなり書くのが楽ですね。良い言語。これで基本的なプログラミングは出来るようになった?はずなので、明日以降は実際にプログラミング問題を解く、という演習をしてみる予定。某本を用いて。この前買った本より簡単なやつ。
メールチェックしてたら、Nintendoからお知らせが。e-shopでのゲームのセールが今日まで、ということだったので欲しいソフトがないか確認。少し気になったゲームが割引で売ってたので購入しちゃう。期限が近いゴールドポイントを使いたかった、というのもあって。名前は良く聞くが中身がよくわからないやつ。今日か明日から生放送でやるかも。
最近体の歪みがひどい、気がする。左首筋の違和感は相変わらず消えないし、歩き方もなんか変な気がするし。AT実践してるのに。どういうこと?今までの私の認識がおかしかった、のだろうか。
この前も書いたが、最近(今さらながら)マイケル・サンデルの本を読んでる。それを読んで考えたこと。
リバタリアニズム(自由主義)の根幹にあるのは「自己所有権」の概念。つまり「私は私のもの」、ということ。個人主義が確立した近代っぽい考え方。だがそれは正しいのか。というか、それでいいのか。
結論だけ書くと、「私は私『だけ』のものではない」、というのが実像なのではないだろうか。物理学な感じで言うと、私という「量子」は波のように広がって存在していて、他人の波動関数(存在確率)と雲のように重なり合っている、というイメージ。確かに主体を持った私という存在がある、ように見えるが、それだけではなくて、他人の中の「私」や世界から見た「私」など、そういうものの集合体として「私(Self)」があるのではないか、と。(「人『間』」とは実に良く言ったものだ、といつも思わされる。)
「私は私のものじゃない」の対偶?をとると「他人は私のもの」、となる。つまり私が言うところの「仲間意識」、アドラーで言えば「共同体感覚」。武田先生で言うところの「集団としての生命」。など。
道徳(というか倫理)には2種類の観点(というか動機)があるのではないか、と思うようになっている。1つは「自分の利益の追求」。「利己を追求し続けると結果的に利他的にならざるを得ない」、ということ。例えば、電車で席を譲る場合だと、「仮に席を譲らなかったら周りの人間から白い目で見られる等、譲る場合よりも社会的に不利な立場に追い込まれる(かもしれない)。それを避けるためには席を譲っておいた方がいい。逆に席を譲ることで譲った人から感謝される・周りの人間に良く見られる等の社会的利益が得られる(可能性がある)。じゃあ譲るか。」みたいな感じ。これは上記の「自己所有権」のみでも説明は可能、というか成立し得るもの。キリスト教等の西洋倫理の根幹。「情けは人のためならず」はまさにこの思考の典型、と言える(そういう意味ではこの諺は全く「東洋」的ではない、気がする。諺の意味が下記の2つ目を意識しているのかもしれないが)。
もう1つが「仲間意識の延長」。つまり(極端に言えば)「他人は私(の仲間)なのだから大事にして当然」、という意識。こういう思想の人間は物語の中だと大体尊重される傾向にある(逆転裁判3最終話の真宵など)。だがこういう人は1つ目の観点しか持たない人から見ると「自己犠牲」に陶酔している、と「曲解」されることも多い(そもそも自己が他人まで延長しているので『自己』犠牲にならない)。「私は自然の一部」的な、つまり東洋的な発想にも通じている?
この2つはどちらが良いというわけでもないと思うが、両者は明確に区別されなければならない、とは思う。目の前の人間が「人に優しくする」動機はどっちなの?という。でもそれは見た目では区別できない。でも私は後者であることを信じたい、と思ったりする。
あ、でもキリスト教みたいに「神の前ではみな平等だから」優しくする、ってのはどっちに分類したら良いのだろう?前者のような気もするし、後者のような気もする。「天国に行きたかったら・・・」とかなら確実に前者だが。
もうちょっとだけ。「市民」の義務なんてクソくらえ、と思う。そもそも市民って何?国家とかいう「幻想」にすがるくらいなら隣の人にやさしくしなさいよ、といつも思う。徴兵制が傭兵になってんじゃない?とか、社会的格差等から実質的に選択を強制されてるんじゃない?とかは、そもそも戦争すること自体が間違ってる、という発想にしないといけないのでは、と思ったり(お花畑とか言わないで下さい)。臓器売買とか代理出産とか。要するに、(人の命等)あらゆるものを「金」という尺度で測ることは可能だし、そうした方が市場(というか人間の活動)が増大するのは当然。だがそれをどれだけ「嫌がれる」か、というのも大事。2つの価値観(「全ては金で測れる」と「金で測れないものがある」)は「同時に存在可能」なのだから、その(実際的)方法を模索していくべき、と思うわけです。
くだらない話を長々と。失礼いたしました。
以上。長くなったのでもう終わる。
明日はもう週末。プログラミングの勉強、かな。とりあえずは。
では。いろいろ活動してから寝る。ピアノとか筋トレとか。余裕があれば生放送も。とりあえず風呂入る?