いつまで自粛やねん。
ほとんど何もせず。自粛疲れのせい?
昼に昼食を食べに行くついでに本屋へ。連休直前の平日だったせいか(その本屋は宣言期間中は休日休業)、レジ前に大行列が出来ていた。で、本を1冊購入。「世界で闘う~」というプログラミングの本。基本的なプログラミング技法を学びたくて。著者が外国人の本の方が何故か信用できてしまう、という癖。今後勉強していきます。とりあえずはPythonの使い方を身につけてから、か。
今さっきトイレの中でマイケル・サンデルの本を読んでて思ったこと。J・S・ミルのあたりの話。
「ザ・シンプソンズ(有名なテレビ番組)」と「ハムレット」のどちらが「質が高い」か、という命題は功利主義とは無関係な「道徳的観念」を認めないと成立しない、というのが著者の主張だった(と思う)。だが「道徳=進化の一系統」というダーウィニズム的?な観点から考えると、進化の度合は情報量の多さや複雑さの程度から(ある程度は)数値化可能なので、その基準からどちらが「質が高いか」は功利主義的に測れるのでは、と。格言的に言えば、「ザ・シンプソオンズよりハムレットの方が『質が高い』と言うのは、人間がミジンコより『質が高い』(=進化している)と言うのと同じ」、みたいな。これに対する反論としては、「複雑さと道徳性はなんか違うっぽい」。確かにそれはそうで、仮に数値化できたとして、複雑さの観点ではザ・シンプソンズの方がハムレットを上回る、ということも考えられる。それでもハムレットの方が「(道徳的に)質が高い」、と思われるのは、「道徳性」そのものが(数値化可能かどうかはともかく)ジャンルとして存在する、ということを示唆している。
要するに、ミルの主張は「道徳は数値化可能」ということを考えれば功利主義に反してないんじゃない?と著者に反論したくなった、というだけ。まあ「快楽(=幸福)」という一元論で数値化は出来ない、というのは認めざるを得ない、のかもしれないが。
余談だが、何で著者(というか普通の人)は功利主義的観点と道徳的な価値は両立できない、としているのだろうか?「人の命は価値をつけられる(金で換算可能)」というのと「人の命に価値はつけられない」というのは全く別の観点(前提)の上での主張であって、そのことをきちんと弁えられていれば両者は同時に成立し得る、と私には思われるのだが。それをきちんと分けられないで「命に値段をつけるのはおかしい」と主張している人の方がおかしい、と思っちゃう。ね。
Abemaの将棋。新四段VSトップ棋士の3戦。アマピコ・広瀬は強さを見せつけたがダニーは連敗(相手は振り飛車のちゃんとした人(名前は忘れた))。糸谷は序盤テキトーに暴れまわってごまかしつつ終盤まとめて勝つ、という印象なのだが、今日の相手には通じなかった、という感じ。私から見て。
最後に羽生vs中村戦。羽生が貫録の勝利。やっぱり羽生強し。リモート背景のオーロラがオーラに見えるという。対局中口が開いてるのがかわいかった。ATの基本は「よけいな力を抜く(ノン・ドゥーイング)」こと。昨日のサトシンはそれが全然出来ていない。だから勝ちきれないんじゃないの?と若干思ってしまった(昨日の対局では勝ってたが)。頭を働かせるときに表情筋を動かす必要はないわけで、それを最適化できてる人(羽生は良い例)は強いんじゃないか、と。やはり棋士のような職業にもATは応用できるのでは、と思わされた一例であった。
以上。今日も何も出来ず。反省。
明日は土曜。(5)連休初日、という人もいるだろう。私はたぶん休んじゃう、と思う。自律したいけど。
では。放送します。昨日言ってたやつを検証する。時間が足りれば。