病院は病気を増やす場所

なのかも。

 

でろろーん。

 

HTMLとCSSの勉強。とりあえず本を読みながらテキトーに。Emmetが便利すぎる。省略記法で全部一気に書けちゃう。Bracketsの補完も合わせてかなりラクに記述ができる。だがもう少し慣れたい。「デザインブック」(ソシム)を見ながらやろうとしたがうまくいかない。というか基本事項は書いてない本だったのね、これ。なのでheaderなどの基本情報はウェブで見つつ書く。それも面倒になってきたのでサンプルデータをDLしたいと思う。山籠もり中なのでデータ量が心配だが。

 

「幸せになる勇気」を読み直す。やはり良い本。アドラー(心理学)はあらゆる「人間関係」をシンプルに説明してくれるが、それを「実践」するのは難しい、と改めて思った。それはともかく、あとがきに前作「嫌われる勇気」が韓国でベストセラーになった、との記述が。この本を読んだくせにまだ「反日」を謳っているのなら、その韓国人はよほど反省する能がないか、あるいは知能が低い(文字が読めない・文意を理解できない)か、と思わざるを得ない。まあ「勇気」を出す、ってのは難しい側面もあるけど。私自身もそうだし。

アドラーと韓国。反日主義はアドラーで言う「目的論」的に考えれば容易に理解できる。目的論は「過去は存在せず、現在の目的のために過去の「物語」を利用している」という立場。つまり「過去にいろいろあったから反日になった」のではなく、「『反日』という目的が先にあって、それに合うように歴史認識等を(事実かどうかは関係なく)歪めている」ということ。「反日種族主義」って本が流行ってるって前に書いたけど、私はむしろ「反日原理主義」と言った方がわかりやすいのではないか、と思った。つまり全ては反日から始まる、ということ。

で、なぜここまで「反日」を信奉するのか。それはやはり反日によって自身のアイデンティティを確立するため、だろう。反日が良い意味で「劣等感」になってるならまだ良いが、今の状況は完全に「劣等(優越)コンプレックス」になってしまっている。そして「幸せになる勇気」で登場する「問題行動の段階」でいうと第3段階の「権力争い」、つまり日本に対して挑発を繰り返す状況になっている、と考えられる。これ以上先の段階に進まないためにも、ここでなんとか踏みとどまってもらいたい、と考えてしまうね。赤の他人の隣国であっても。

「課題の分離」の立場からすると相手に何かを言って操作しようとするのはタブーなのだが、あえて韓国に助言をするとするなら「まずは日本を認めよ」、ということでしょう。無理に「好きになれ」とは言わない。でも過去にいろいろあったからといって、それにこだわって「反日」を続けていては何も改善できない。「これからどうするのか」を真剣に考えてもらいたい、ですね。ちゃんと考えた結果日本から離れて「赤組」に就く、というのなら、それはそれで尊重しなければならない、けど。

逆に言えば日本も韓国を1つの国として「尊敬」しなければならない。「韓国を対等な国として扱う」という視点から見たときに、今回の「ホワイト国除外」等の措置が正しかったのかどうか。よく考えてみる必要があるだろう。(私は正しいと思うけど。)そしてこれからの対応についても「尊敬」の心を忘れてはならない。

こっからは真面目じゃない話。日本のホワイト国除外は建前上は「輸出管理の問題」であって、韓国がちゃんと輸入したものをどう使ってるのか等の書類を用意すれば、日本としては(いくら韓国が嫌い?でも)除外する理由がなくなってしまう。つまり韓国が(建前上でも)「誠意」を見せれば日本はそれに応えざるを得ない、ということは冷静に考えればわかるはず、である。つまり韓国は日本に「意地悪」したいならきっちり書類を作って「日本の措置は間違ってるよ」と世界にアピールするのが一番、だと思うのです。だが韓国はそうせずに「安全保障で『信用』できないならこっちもGSOMIA破棄してやるわ」と来たわけ。日本の措置はそれが履行されても日本にダメージがないのに対し、韓国の措置(GSOMIA破棄)は日米韓の連携にヒビを入り、アメリカに嫌われることで(嘘つき呼ばわりされたり)自国の損にしかなっていない。この点で韓国(文政権)には冷静な判断力が欠けている、と言わざるを得ない、でしょうね。まずは「自分から尊敬する」こと。韓国にはその姿勢がない。ならば先にあるのは孤立だけ、だろう。

 

キキタイ放題の話。安楽死の話題をやってた。まずは安楽死・尊厳死・緩和ケアの区別をちゃんとすべきだろう、と思った。話の前提がかみ合わないと正しい議論が出来ないから。

安楽死について。①人には「死ぬ権利」がある、というのはあまり正しくないと思う。もっと正確に言うなら「(普通の)人はいつでも自分が死ぬように行動を選択できる」。例えば私が今死にたいと思ったなら、そばにある包丁で頸動脈を切ることも出来るし、電車に轢かれるために線路上に向かうこともできるわけである。ビルの屋上から飛び降りることもできるし、体を動かせない場合でも舌を噛みきる等はできる。これは人間に「死ぬ権利=自ら死を選ぶ権利」があるかどうかに関係なく事実としてそうなので、「死ぬ権利」について考えることやそれを元にした議論にはあまり意味がないのではないか、特に健常者については、と思った。(書いてて例外(②)があることに気づいたが)。

で、②問題なのは病気等で体の自由が利かず自ら死ぬことが出来ない人間の場合。こういう人に「死にたいから手を貸してくれ」と言われて、実際に手を貸すことが「悪い」のかどうか。①の議論を踏まえると、普通の人間なら自分の「死」を選択できる、ならばこういう人も死を選択できて然るべきだ、そのために手を貸すならそのこと自体は悪いことではない、と私には思われる。つまり自殺幇助はⅠ.本人が心から死を望んでいて、Ⅱ.自らの手で死ぬことが出来ない場合に限り許される、となる。問題はⅠで、心から死を望んでいることを他人がどう判定するのか。例えば書類にサインしたからと言って、死ぬ直前になって「やっぱり死にたくない」と心変わりするような状況も考えられるわけである。これは難しいね。この問題については時間がないのでこのくらいにしておく。

③そもそもなぜ人は死にたがるのか。この問題は「苦痛」(物理的・精神的)と深く関係していると思われる。つまり大抵の場合は苦痛から逃れたいから死を選ぶ、というわけ。(例外としてデモ等の政治批判のための自殺、などが考えられるが、これも(心の)苦痛の一種、と考えることができなくもない。)なのでここではあえて苦痛を物理的・精神的に分けて考えてみたい。
まずは精神的苦痛(のみ)抱えている人の場合。例えば体は健康だが、学校の人間関係が嫌で夏休み明けに自殺してしまう学生など。こういう「死」に関しては、周りの人間の対応によってほぼ100%防げるはずだし、というかこういう人間は死ぬべきではない、と思われる。アドラーによるなら、人間はいつからでも自分の「ライフスタイル」を変えられるし、その人が「自立」できるように周りの人間が「尊敬」を持って接すれば、人は必ず自身の「尊厳」を取り戻せるはず、なのである。だから精神的苦痛のみによる自殺は(周りの人間は)認めてはならない、というか推奨されるべきではない、と私は思う。こういう自殺を防ぐように(周りの)人間は自身のライフスタイル、つまり人との接し方を見直さなければならない。
次に物理的(肉体的)苦痛を持つ場合。病気で体がずっと痛み続けていて、それが耐えがたくなった、とする。病気を治す方法がなく、苦痛をとり除くためには死ぬしかない、という状況のとき。①まず本当に病気は治せないのか。もしかしたら数年後等にその病気を治す薬が作られるかもしれない。その可能性があるなら死を選ばない、という選択肢があってもいい。まあ普通は病になって時間が経って「そんなことより今すぐ苦痛を取り除きたい」という思考になってる状況だろうけど。②治せないなら、苦痛だけを取り除いて余生を過ごせないか。これが上記で書いた「緩和ケア」に該当する。「苦痛は嫌だが自ら命は絶ちたくない」という人(大半の人はそうだと思う)は積極的にこの「死に方」を採用して良いのではないか。大半の人がそう思うからこそ、「『緩和ケア』という死に方もあるよ」ともっと周知していくことが必要なのではないか、と思った。③緩和ケアが可能であるのにも関わらずそれを認めず、とにかく早く死にたい、という場合。この場合は先ほどの「精神的苦痛」の場合と同じで、周りの人間の努力が必要だ、と思われる。④状況によっては薬等によって苦痛のみを取り除くことも困難、ということもあり得る。この場合に限っては「積極的安楽死」を(周りの人間が)認めても良いのではないか、と思われる。
結局、人が「死にたい」と思うとき、「課題の分離」の視点から見ればそれは結局本人の問題なので他人がそのことに口を出すのは許されない、はず。だが大抵の場合(上記④の状況以外)それは「周りの人間が悪い」ことが原因であるので、周囲の人間がそのことに自覚的になることが必要、と思われる。つまり周囲の人間が死を勧めることがあってはならない、ということ。もっと「尊敬」を持って他者に接するべし。
ついでに苦痛がないような場合も考えてみたい。例えば脳死状態になった人を殺してもいいか、というような。この場合は本人の「意志」があるかどうかもわからないので難しい。そのまま生かしておけば奇跡的に意識を取り戻す、という可能性がないわけでもない。このような場合はもはや周りの人間(近親者等)の意志を尊重するしかない、でしょう。本人が決めようがないのだから。そしてそれが「死なせる」という選択肢であったとしても誰も非難できないだろうし、非難するべきでもない、と思う。

④「死」の話題が出たついでに。最近読んだ哲学書?だと、このまま技術革新が進めば、遺伝子操作・若返り技術によって人間の寿命が∞になる日はそう遠くない、とのこと。安楽死について考えるのも重要だが、近い将来「人間が死ななくなった・『死なない』という選択が可能になった」ときにどうすべきか、という問題もあることは考えておかなくてはならない、と思った。

 

以上。いつの間にか4000字も書いて、時刻も1:20くらいになってしまった。早く寝ないと。

明日もHTML関連を学ぶのがメイン。早く自分のページに反映させたい。

 

では。筋トレしようと思ってたけどもう寝ます。この際ついでにゴッドタン見る?

 

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