揺れちゃう想い

今日は暇だったので猫さがしに行ってきた。某有名な猫スポットに。

結局1匹もさわれなかったが。全然いなくて、詐欺だろとすら思ってしまった。

今日はいろいろと書きたいことがあるので。

 

まず、IOSをアップデートしたのだが、これが失敗。

目的の「リトルノア」はできるようになったのだが、他の一部のアプリが使えなくなった。これについては、後日詳しく述べるかもしれません。

バックアップも取り忘れたので、取り返しがつかないかもしれない状況。「脱獄」等も考えたが、まあ諦めることにしました。

まだアップデートしてない人は、しない方がいいと思います。

で、その「リトルノア」だが、普通に面白い。

スマホゲー特有の金を出させようとしてくる感はあるが、ゲームシステム(施設建設に時間がかかる)がそれをうまく中和する感じ。あと絵が和む。

まあ数日で飽きると思います。

見てる人はいないと思うけど、フレンドとかギルドとかやりたいとかいう人は、コメントとかに書いとくといいかもしれないですね。

 

今日は「震災」から4年。

その時の思い出。

その日、学校に休日出勤、のち12時頃に帰ってきた私は、母と家にいた。

2時だか3時だかに地震があった。最初はただの地震かと思っていたら、だんだん強くなってきて、私は倒れてはまずいデスクトップPCとテレビを必死に押さえていたことを憶えている。母は食器棚を押さえていたらしい。

揺れが収まったあと、本棚が倒れ、洗面台の中に歯ブラシ等が大量に落ちていた。実質的な被害はほぼなかったと言えよう。

それだけ。

というのは味気ないので、ちょっとした話。

「偽善者」とは何か。

私のように、地震による実質的な被害がほぼない人が、震災を受けた人々のことを心配していたとしたら、それは「偽善」だろうか。

遠くの、自分とは何も関係ない人々。それを気にかけるのは、「よい」ことなのだろうか。

ある人は、「いや、関係ある」とか言うだろうし、「どうでもいいと思ってるくせに」とか言うひともいるだろう。

この問いを突き詰めると、「マザーテレサは偽善者か」ということになるだろう(?)。

私の答えは「NO」。

そもそも「偽善」の定義とは何か。そこが曖昧な気がする。

私の考えでは、「自分の心に正直であればよい」ということに尽きる。

本気で被災地の人々を心配しているのであれば、言い換えれば、心配すること以外の雑念がなければ、心配そのものが目的であれば、それは「善」なのであろう。

そうではなく、心配しているように見せることで、何らかの利益を得ようとしていたら、それは「偽善」ということになるのではないか。

結局、人間には他人の心はわからないので、その人が「善」か「偽善」かなんてわからない。じゃあ他人を「偽善」だと非難する人は、何が言いたいのか。

それは、自分が「偽善」から脱した「正直」な人間です、とアピールしたいだけなのか、それとも、他に理由があるのか。

私自身は、そういう人(非難する人)は「愚か」だと最近は思っている。「道徳的」に考えて、その人自身に何の利益ももたらさないから。

自分の利益を最大限追い求める「自己中心的」な人間は、結果として「道徳的」にならざるを得ない。それが、最近の私の考え。ということは、「非難する人」は、実は他人を思いやる「正直」な「いい人」なのかもしれない。

またよくわからない議論をしてしまった。

私は偽善者になりたくはないが、一応、「被災地の一日も早い復興を」と、口先だけの、何の心もこもっていない言葉を書いて、今日のブログを終了とします。

明日は実況を撮ってみるつもり。以上。

 

 

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