平成三十一年の10円玉って高く売れますか?

もう使っちゃったけど。

だらだらと。プログラミングを考えてたくらい。



タイトル。昼はうどん。支払い後に財布の小銭を確認してたら、10円玉の中の1つが平成三十一年発行なのを発見。あと100円玉が1枚令和元年のだった。平成三十一年は5月から令和元年になったので実質4か月しかなかった。その間に発行された硬貨(紙幣はいつのやつか見た目でわからない)は他のやつより希少なのではないか、と思ったわけです。まあどうせ将来的にはお金の電子化が進むので硬貨自体が希少になる、のだろうけど。まあ取っておいても良かったかも、ね。



Pythonでプログラミング。今日学んだこと。①わざわざreを使わなくてもstrのメソッドで大抵のことは出来る。置換ならtranslate(単一文字列のみ可)とか。文字列を全て一度に大文字・小文字にするには.upper()・.lower()とすればいい。②辞書を用いたメモ化に成功。関数定義の途中でreturnするとその後の処理は行われない、ということに注意。メモ化の書き方は、1.既にメモにあったらその値を返して終了。2.メモにない場合は初期値と再帰を書いてメモに残す&値を返す。注意事項。辞書のkeyにはタプル(immutable)を使える。リスト等は不可(mutable、つまり後からkeyの値が変更できたら困る)。有名なフィボナッチ数列等を使って速度の比較をしてみよう。




Aマッソについて。「棒なんやねん」のネタはinterestingであると思う。新しいスマホを説明書を見ずにいじる時のような、プレイしたことのないゲームのプレイ動画をみてそのゲームのルールを把握していくときのような、そういう快感。あと発想や着眼点が良い、みたいな。「レッスン」は映画「セッション」を見てるような感じでしたね。世界の中の自分と、それを外から(俯瞰で)見る自分。それらが一体となった状況そのものを「嗤う」、というような感覚。
でもfunnyではない。私も動画を見てるとき「面白いなー」とは思うのだが、気づくと全く笑い声を上げていない、ということが多い。落語を見てるときと同じ感覚。お笑い見る時って実はそんなに頭を使いたくないもの、だと思うのです。頭をフル回転させて味わうお笑いもいいとは思うけど、実はそれが出来る(味わえる)人ってあまりいないし、出来る人でもそればっかりだと疲れちゃうし。ザコシみたいに何も考えずに笑えるネタもあっても良かろう、と思われるわけです。
アドバイスするとすれば、もっと場面に応じたネタや表現をすればいいんじゃない?と。テレビ見てるやつなんてアホばっかなんだから、そういう奴に合わせたネタをすればいい。ウチらのネタをタダで見られると思うなよ、みたいな意識で。極端にトガったネタはライブ等金を払って見に来た人にだけ見せればいい。テレビ等誰でも見られるような場面では少しだけセンスを光らせる、ような感じで。逆に平場で無理にセンスを見せまくろうとする必要もない。とっさにセンスある(もしくはあるっぽく見える)返しを連発するのはいくら天才みたいな人でも難しいし、逆にスベる可能性もある。もっと流れに乗るようにしても良いんじゃないか。「普通」の返しでも面白い時は面白いものです。無理をせず、でも自分らしく。
少し話が逸れるが、下ネタについて。Aマッソの下ネタって本当に下ネタが好きでやってる、という感じではなくて、「これをやったら面白かろう」ということを総当たりで試していく中に下ネタも含まれてる、という感じがする。だから場違いな場面で下ネタが出てしまうわけである(それが面白い、というのも多少はあるが)。対策は2つで、①無理して使わない。②使いまくって「センス」を磨く。どちらで行くにしても、現状では中途半端。あと自分の「見られ方」にもう少し気をつかっても良いかもしれない。



以上。なんか疲れた。
明日はもう週末。だらっと過ごす予定。



では。腹減ったので何か買ってくるわ。いや、家の中のもので済ませるか。はあ。

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